ここで重要なのは、松平一族が徳川に改姓したのではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである(嫡男の
信康については、名乗った説とそうでない説がある)。「徳川」姓は、家康個人が松平氏内部で専制権力を確立して松平一族と家臣団を統制するために使われたと考えられる。初代家康が慶長10年(
1605年)に将軍職と当主の座を辞して隠居するまでに徳川姓を称したのは、世子の
秀忠ただ一人であった。公認される限り十一人いた家康の男子で徳川姓を許されたのは、三男で世子の秀忠、及び御三家の祖となる九男
義直・十男
頼宣・十一男
頼房[1636年(寛永13年)7月、徳川賜姓し、松平姓から改姓した。]の4名にすぎない。後の3名は、秀忠が二代当主(将軍)になって以後に元服したものである。