徳島藩洲本
城代家老稲田家(1万4千石)は、徳島本藩との様々な確執が以前よりあった。
幕末期、本藩側は
佐幕派に対し稲田側では
尊王派であり、稲田側の
倒幕活動が活発化していくにつれ本藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして
明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島本藩の家臣は
士族とされたが、陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は
卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(
洲本藩)の設立を目指す(そうすれば自分達は士族になる)ようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていた。稲田側こうした一連の行動に怒った本藩側の一部過激派藩士らが、
明治3年
5月13日(1870年
6月11日)、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃した。