1586年には甲賀忍者の統率を任され、2,200貫の所領を与えられた。家康が関東に移ると、
下総国内で3,000石を与えられ、同時に江戸町奉行に任じられた。
1601年には1万石を与えられて興国寺藩主となる。康景は藩政においては農政や治水工事に尽力したが、
1607年に家臣が天領における領民を殺害した問題を巡って
本多正純と対立、正純の処断に激怒した康景は城地を放棄して息子の対馬守康宗とともに出奔し
改易に処せられた。小田原の西念寺に入って、同地で没した。息子の康宗は、寛永5年(1628年)に赦免され、1000俵を与えられ、天野氏は1000石を知行する中堅
旗本として存続を許されている。